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人材育成の要諦 [講孟余話]

講孟余話 第2巻 梁恵王 下 12章

非常に示唆に富んだ章だと思います。

「うちの国ではこの前の戦いで、隊長(役人)は33人死んだのに、
 兵士は1人も死なないで、逃げてしまった。。。」
ために負けてしまったので、
見せしめに、兵士どもを処刑しようか、という王に対して、

「日照りの時や不作の時に、国の倉庫にはたくさん備蓄があるのに、
 それを民衆に与えないで、たくさんの民衆が飢え死にしている。
 役人たちは、それを知りながら、王に”備蓄しているものを民衆に分けて与えてください”
 と進言すらしなかった。
 役人が民衆を殺した、とのと同じです。
 どうして、そんな状態で、一般の兵士をせめられるのでしょう」

といっております。

戦時に兵隊が役に立たないのは、
日ごろから役人、国に対して恨みつらみがたまっているから、
命を張って闘おう、という気持ちの兵士がいない、ということで、
それは、役人が平時に庶民を殺しているのと同じだ、ということです。
だから、今こそ、それに気付き、
政治を改めなくてはいけない、ということです。


コンサルタントをしていたころ、
企業の経営者からもっともよく聞く声は、

「うちの社員には心魂賭して働いてくれるような社員がいない。。。」

というような言葉です。
つまり、昔と違い、特に今の中堅~若手世代には、
「会社のために頑張る」
という人がいない、ということです。

確かに、雇用体系や世相なども変わり、
一つの会社で終身がんばり、会社のために働こう、ということが、
当たり前であった時代ではなくなりました。

だからといって、企業経営において、
「企業のアイデンティティの存続のために人生をかけてくれる人」
がいなくていいわけではなく、
経営者としても、
当然、そういう気概と意欲とモチベーションの人材を求めています。
いうまでもなく、そういう人のほうが、
頑張りが利くからです。

しかし、「世の中がそうでなくなってきた」といいわけしているわけです。

それが、日本の企業力を弱めている一つの原因、ではないかと思っています。


そうではないはずです。
そうなってきた原因は、世の中にあるのではなく、
自らの「経営」(孟子でいえば政治)に原因があるにきまっているのです。
そう捉えて、経営者側が意識と行動を変えない限り、
いつまでたっても、会社にとって、
「戦いのときに真っ先に逃げ出す社員」ばかりの集団になってしまいます。
そんな会社が、存続していけるはずがありません。

そういう転換をはかるのには、いろんな要素があるのですが、
孟子のこの章でとても気づかされるのが、

「社員が本当に困っているときに、どれだけ会社はその社員のことを助けてあげているか」

ということです。

家族の不幸、自身のけがや病気、不慮の事故、出産育児の問題、など、
本人とって仕事関係ないところでおきた問題に、
どれだけ会社は真剣に助けてあげているか、
「制度」や「仕組」を整える、ことではなく、
その「想い」がどこまで浸透しているか、
経営者が体現しているか、
これは、とてもとても大事なことなのだ、と思います。

自らの苦しいところを会社に支えてもらった人と、
そんなときに、粗末に扱われた人、
いざとなったとき、どちらが強い戦力になるか、
言うまでもないことかと思います。


企業経営という視点、でみてもとても示唆に富んでいるかと思います。

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千里の志 [講孟余話]

講孟余話 第2巻 梁恵王 下 11章

この章は、斉の王が燕を討ったら、諸国が大挙して燕を助けようとしてきた、
それにどうしたよいだろう、
という問いに、

「捕らえた人を放ち、略奪した宝物を元に戻し、
 民衆と相談してその国にふさわしい君主を立てて、
 これまで燕の虐政とはまるで違う仁政をほどこしたならば、
 諸国は燕を助ける口実がなくなる」

といっています。

ただ、これは理想論で、実際は諸国の利害関係もあるわけですから、
起こしてしまったことへの対策、としては、
とても心もとないような気がします。

およそ、このような状態にさせないために、
もともと、燕の民衆に敵とされるような征服をしなければ、良かった、
ということをいっているようで、
王からすれば、「今更そんなこといわれても・・・」という気持ちを持つのではないかと思います。

松陰のさっ記では、
「未だ千里を持って人を恐れるものを聞かざるなり」
という点を取り上げ、
幕末の日本の状況を、
自らを大国と位置づけ、
外国からの圧力におどおどし続ける為政者を強烈に批判しています。

国の大小、会社の大小、など規模の尺度は、
比較のしようで変わります。
絶対的な大きさ、というものは判断しにくいところがあります。

しかし、自らを、「千里の志」「千里の思い」をもつものと規定するならば、
およそ一人の人間、小さな会社、小さな国、
でも同じことが言えるのだろうと思います。

自らの理性・思想の教育し、
外圧、外敵、障害にあたるにあたって、
このような気概をもって臨めば、
およそかなわぬ、ということはないのだ、と言うことだと思います。
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政治の見方 [講孟余話]

講孟余話 第2巻 梁恵王 下 10章

短い章でわかりやすい内容ですが、
さっ記における松陰の解説がとても今日深い章です。

内容としては、隣国で内乱があり、その国をせめてとるかとらないか、という話で、
孟子は、「その国の民が喜ぶようなら」取りなさい、
そうでないなら、やめなさい、といっています。

松陰はさっ記では、
「勝は安く、勝を守るは難し」
という言葉を引き合いに出していますが、
うなずけるところです。

孟子としては、だから、「勝つ」ことではなく、
いかに、仁政を引き、治めていくか、
その治め方が前の君主よりも魅力的ならば、
その国を取りなさい、ということです。

この内容を受けて、松陰は下記のように言っています。

「大業を起こそうと思うならば、重要なることは、征伐の軍を動かしているその時ではなく、
 軍を動かさぬ、大変無事の日の態度にある。
 大変無事の日の政治ぶりが、真に民心を得るに足るものであったならば、
 そのほかのことは何も言うことがない」

このような感覚は、
今の政治家にはぜひとも、今一度心してもらえれば、と思うところです。
特に、今後も政権交代、ということが日本において常態化していくならば、
「選挙に向けたPR」に終始するような活動は、やめてもらいたい、
それは、上記でいえば、”軍を動かす”ということになると思います。
そうでないときに、どれだけの活動をしているか、
そのスタンス、姿勢、成果が、選挙で評価される、
そうなっていかねばならないのだと思います。

今の民主党は、決してそのような活動の結果政権を取ったのではなく、
ただただ自民党の失点が重なり、
マスコミを中心とした論調、風向きにより、
「やらせてみたらどうなるか」
という感じでの結果でしかないと思います。


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TOPと専門家 [講孟余話]

講孟余話 第2巻 梁恵王 下 9章

この章は、大変興味深い章です。
比喩として、
「宮殿をつくるのに、よい大木があったら、
 その大木を削り、宮殿をつくるのは、大工に任せるだろう」
「高価な玉の原石があったらならば、
 その玉を磨くのは、玉磨きの専門家に任せるだろう」
といい、
「しかし、国家のこととなると、それらの道の専門家を尊重せず、
 ”俺の言う通りにやれ”となる」
といっています。

言われればその通りです。ぐうの音も出ません。

確かに、TOPというのは、
その組織で起こること、すべてに精通している、ということはありません。
まして、国家、となれば、
それぞれに専門家がいるわけですが、
どうしても、その国、組織のTOPは、
「自分が思う通り」に進みたくなるものです。

たとえば。
社長が労務が考えだしてきた、労務対策について、
「それは違う、こうしなさい」
という。
しかし、社長は労務の専門家ではない。
だから、本来ならば、労務のことは労務に任せればいいのです。
でも、それが、現実の組織ではほとんどできない。

吉田松陰は、さっ記の中で、その理由を、
「TOPの私欲」としていますが、
もちろん、それも多いでしょうが、
現実面では、もう少し違った理由が多いように思います。

たとえば、先の労務の話ならば、
労務が、労基対策で、社員の残業代の削減と、残業代をさかのぼって支払うことが、
コンプライアンスの観点から、実施が必要と言ってきたとします。
それ自体は正しい。
けれど、社長からすれば、それはできない。
なぜならば、それは、今、そんなお金がない状態で、
労務上のリスクを背負っても、
今年一年は業績回復を最優先としなければならない。
そんなことだったとします。
この場合、問題点は、
「TOPと現場の専門家が同じ経営方針を抱いていない」
ということであり、
それぞれが、違った方向を向いて歩いている、ということです。

たとえば、経営会議で、労務についての方針をディスカッションし、
向こう3年間程度の方針を決めたうえならば、
このような話がないはずです。

ただし、実際の現実はもっと複雑で、
たとえ、上記のように方向性を共有しても、
組織やTOPへの帰属意識が薄いと、
表面上は理解していても、深いところでは反対、であったりすることがとても多いので、
TOPはすべてに介入せざるを得ない、という時が多いです。


この章で、孟子のいっていることはまさに正論で、
任せるべきところは、その道の専門家に大いに任せるべきで、
TOPのすべきことは、
その方針とプロセスチェックし、
問題に対してアドバイスをする、そして、トラブルに対して責任を取る、ということですが、
その前提として、
そのようなことが実現できるには、
組織としてのビジョン、方向性が共有されており、
かつ、上と下の信頼関係が構築されているとき、ということが必要になると思います。
それらをなしに、この言葉をうのみにすると、
めちゃくちゃなことになることが多いと思います。


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日本固有の思想 [講孟余話]

講孟余話 第2巻 梁恵王 下 8章

この章では、
王朝の交替について論じています。
簡単にいえば、
孟子は、たとえ今の王であっても、
仁を失えば賊であり、
義を失わば残であり、
王が残賊であるならば、
天がこの世に使わしたものが、
王になり替わるべき、という放伐思想を肯定しています。

そして、吉田松陰は、この章の解説で、
中国の思想ではそうだが、
日本では、天孫である天皇一族が存在する国であり、
中国でいう王、は、征夷大将軍に当たり、
天意はすなわち、天皇からの勅命であり、
征夷大将軍が用をなさないならば、
勅命のもと、打倒していかねばならない、として、
倒幕思想の礎としています。

つまり、この点の考え方は、
天皇という存在により、
日本と中国では、大きく違う、ということを定義しています。

中国のこの放伐思想は、
とても近代的であり、
現在の民主主義につながるところもあり、
現代のわれわれには、「当たり前」に感じ、
日本的な考え、というのはしっくりこない感じがします。

しかし、
日本は、明確には鎌倉期から、
実質的には平安時代から、
外戚である藤原氏、次に平氏、
そして武士の幕府、
そして維新以降は政府、
と、かれこれ1000年以上にわたり、
天皇と、実質的な為政者、との二重権力的状態が続いています。
権威と権力の分離、といっていいでしょうか。

こういうめんどくさいう状態、というのは、
東洋にも西洋にも、
なかなかない、
特に、それが国体として当たり前になっている、
というのは、たぶんほかにないのだと思います。


そして、好きであれ、嫌いであれ、
いかに戦後のGHQの支配下において、
このような日本的な権威と権利の構造を強く否定しようとも、
(それが、戦争を招き、悲惨な状態を招いた、と”勝手に”決めつけた)
今の私たちの思想、生活習慣、慣習に、
たくさん色濃く残っているのだと思うのです。

具体的に言えないのですが、
それを、否定し、なくしていってはいけないのだと思います。
そして、それを、否定し、なくそうとしているのが、
戦後のGHQ支配時代の、
最大の目標であった、と私は思っています。

今は、まさに、その時代の彼らの考え、というのは結実しつつある、のではないでしょうか。

それではいけない、
日本固有の思想、考え方、というものを、
しっかりと今の時代に進化させたものにし、
日本人に定着させていかなくてはいけない、
そう強く思います。


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人材の選定 [講孟余話]

講孟余話 第2巻 梁恵王 下 7章

この章は、人物の登用、判断についての論が展開されています。
そして、最後に、刑罰についても同様に記載されています。

ここでは、3つのテーマを考えたいと思います。

1)人物登用について

孟子は、有能な人物の登用について、
「左右の近臣がみなあれは非常な人物だとほめても、すぐには登用してはならない。
 重臣たちがみなあれは非常な人物だとほめても、すぐには登用してはならない。
 国中の人がみんなあれは非常な人物だとほめても、
 なおよく自分で見極めて、これなら大丈夫、
 非常な人物だ、と思ってから登用されるべきです」
といっています。ちなみに、解任の場合もこれと同様です。

これは、現代では相当の違和感があります。
こんな登用抜擢では、
ビジネスにおいては、スピード感を逸し、
とても対応できない、そう感じます。
ただし、
このような選定眼、というのは必要かと思います。
つまり、
自分だけの目でなく、
上司だけの目でなく、
部下だけの目でなく、
世間の目だけでなく、
その一つ一つの目が、どういう判断をしているか、
すべての評価を自分が把握しているかどうか、
が重要だと思います。
登用や解任、ということを考える際、
常に、これら4つの目の評価を、
自分が把握しているかどうか、
把握していないならば、
しっかりと確認をして、
最終判断の材料とする、
これが重要なこと、と思います。

2)刑罰について

孟子の論理の中で注目したいのが、
上記の人材の登用についての選定の流れと、
死刑、の決定についての流れが全く同じ、であるということです。
これは、司法の独立、というような概念のない社会であるが故、と解釈できます。
つまり、
政治の理屈と、刑罰の理屈の理想論が、同一理論、というのが、
司法の在り方、を考えるときに、
ヒントがあるのではないか、と思います。

司法は司法で、政治は政治で、行政は行政で、
それぞれ現代の制度は分離自立し、
三権分立しているわけですが、
それはそれでいいのですが、
この3つの中で、
統一の思想的ベース、があってしかるべきではないか、と思うのです。
欧米や、多くの国では、
そこにあるのは、宗教に基づいた倫理観、です。
共産圏には、マルキシズムという価値観がありました。

権力が分離し独善を阻止する、というのは理想の形、と思いますが、
3つの権力が、
相反する思想で動いていは、
話がまったくかみ合わないでは、
イエスと仏陀がどちらがえらいか、みたいな話になりかねません。

日本には、今、
そのような、ベースとなる倫理観、価値観、というものが、
欠如していると考えています。
そして、それは、
戦後のアメリカ支配下において、
「意図的に」なされてきた、と思っています。
証明するものはありませんが、
おそらく、それは間違いないと思っています。
そして、国家、というものを見た場合、
国家を支え、国民をまとめるのが、
そのベースとなる価値観、倫理観、であるというのは、
認識されていたのだと思います、当時。

ただ、日本は、戦争において、一部の暴走により、
偏りすぎた国家思想がはびこった、
という苦い経験があるので、
そのような思想の形成が悪、という過剰認識が今もまだありますので、
当時、アメリカが上記のような動きをするのに、
迎合するのもの無理はなかったと思います。

が、今は、もはやそのような時期ではないと思います。
骨のない国家、国、は、いずれ滅びる、
それくらいの意識を、為政者や思想家はもつべきだろうと思います。

3)譜代の家臣

松陰はさっ記においては、
このテーマを熱く論じています。
我々日本人は、日本としての譜代の家臣であり、
世録を受けてきた以上、
国家の受難に、
一身を賭すべきだ、と強く論じています。

孟子は、
「古い由緒ある国がらだと言って世間から尊敬されるのは、
 忠義な譜代の家臣がいることをいう」
といっております。

譜代の家臣、というのは、わかりやすくいえば、代々の家臣、といっていいでしょうか。

組織の強さ、ということを考えた際に、
一つに基軸として、
このような価値観を再導入してもいいのではないか、と思います。
適材適所、
タイムリーな人員配置、というのも、
もちろん経営において重要ですが、
この部署を長きにわたって守ってきた人、
この会社を長きにわたり支えてきた人、
そういう人の数、というのを力に変えられる経営、
という観点も非常に重要だと思います。

年功序列や終身雇用、というのは過去のものですが、
少なくとも、これらの制度は、
組織への帰属意識とロイヤルティの形成、
という面では大きな効果がありました。
組織の強さは、
組織への帰属意識なしに語れません。
現代では、主流は、理念に帰属させる方向ですが、
組織そのものへの帰属意識、も重要なのではないか、と思います。

「この会社が好き」「この組織が好き」
平易にいえばそういうことです。
一昔前は、それをシステムにしたのが、
年功序列と終身雇用でしたが、
今の現代に即した、
新しいシステム、を考える時期に来ていると思います。

たとえば、ですが、
ぜひ試してみたいことの一つとして、
新入社員は、既存社員からの紹介しかとらない、
というような感じです。
イメージとしては、ミクシィ、のような感じでしょうか。
それにより起こる化学変化、というのを検証してみたい気がしています。


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論客 [講孟余話]

講孟余話 第2巻 梁恵王 下 6章

この章には、新たな論点の展開はありません。
ただ、斉の王が唾棄すべき思考でしかなかった、
ということが論証されています。

この章の孟子の王の問い詰め方は痛烈を極めます。

現代の経営に即して作り変えてみて、
社長への問答、としてみると、

自分の友人に、自分がいない間、犬の世話をしておいてくれ
と頼んだのに、
何も世話をせず、死なしてしまったら、
その友人をどう思うか。
それは、友達としてとても信用できない、ということになります。

コンビニ店長が、
コンビニの店員が店の物を平気で万引きしているのを見逃していたら、
オーナーのあなたはどうするか、と言われれば、
それは、その店長を首にする、というでしょう。

では、会社の社長が、
社員を大事にせず、
自分のやりたいことだけをやっているとしたら、
その社長は、どうしますか?

と言われたら、
ほとんどのオーナー経営者はひとたまりもありません。


孟子の中では、
このような例話から、
対する相手そのものへの事例への切り替える、
という論法が多く使われていますが、
実際、今の世の中で、
このような形でビジネスで実際に相対するのは、
とても危険に思います。

論客、や、思想家、というものが一定の地位を得ている時代だからこそ、
通用するところと思います。
もしも、
コンサルタントが社長に、
このような言い方をすれば、
いかに正論でも、
受け入れてもらえることはほとんどないと思います。

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ぶれない思想 [講孟余話]

講孟余話 第2巻 梁恵王 下 5章

この章も、王の質問に対して、
孟子が王道の大切さ、
どうして王道を採ろうとしないのか、
そのことを繰り返し述べています。

王が、小さなお堂の処遇を尋ねても、
王道の必要性を説き、
王が自分がそうはいってもできない理由を、
あれを述べ、
これを述べても、
まったくぶれずに、論を逆手にとって、
王が王道を取るにふさわしいか、
強烈に繰り返し述べています。

さっ記にて、吉田松陰も述べていますが、
孟子は、国政の在り方において、
王道を取るべきである、
ということに、いささかのぶれもなく、
王がおもねってもぶれず、
王が弱音を吐いてもぶれず、
王が言い訳をしてもぶれず、
時に叱咤し、時にこんこんと諭し、時に逆説的に例を用いて話し、
王道を取るべきであること、
そのありようを説いています。

ここに、孟子の王道への信の太さ、
後世、それも何千年と生きる思想家の根幹があるように見えます。

絶対にぶれない。
覇道が絶対的主流の時代に、
王道を説き続ける、
場所が変われ、相手が変われどそれがぶれない。
それが、思想家の最大の前提条件なのでしょう。

思想の実現の手段は、
時代や環境、自らの境遇によって変われど、
その思想の根本は、絶対にぶれない。
そこまで強い信念が持てる、
確信のはるか上を行く力が持てるには、
どうすればいいのか、
今は、ただただ、目の前のことから逃げずに必死に生きること、
そして、必死に自らの思想を磨くために勉強すること、
それしか私には思い当りません。


さて、この章で、孟子は改めて王道の在り方を、
事例をもとに詳しく話しているわけですが、
その中で、最も力を入れて力説しているのが、
「この世で最も困っている身寄りのない人」への対応です。
松陰も、さっ記において、
当時(1850年ごろ)の清国の様子を赤裸々に記載し、
中国において、このような王道思想が死に絶えている、
故に列強からの侵害を受けてしまっている、
と記載しています。

顧みるに、現代の我々はどうか。

弱者を支える、救済する、ということに、
どれだけの力がそそがれているか。
社会の安定は、社会の底辺にいる人間を支えることであり、
社会の上部をにぎわす人々を支えることではない、と思います。

経済発展、と、社会生活の安定、
相容れない2者ですが、
資本主義経済の発展の行く末が、
勝者と敗者、強者と弱者の2分化であるならば、
そろそろ、資本主義社会、自由競争、個性尊重、という現代の思想の基軸に、
もう1つ、2つの基軸が加わっていくことが望ましいのではないか、
そのように感じます。

そして、そのヒントが、
東洋の王道思想にある、そのように思っています。
孟子などもまさに、そのひとつ、ではないか、と。

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社長が現場にやってきた。。。ら? [講孟余話]

講孟余話 第2巻 梁恵王 下 4章

この章では、
改めて、「人民とともに楽しむ」ことの重要さを説いています。
再三このテーマが繰り返される、
ということは、
いかに、当時の政治が「覇道」に傾いていたのか、が想像されます。
そのために、採算「王道政治」を説かないといけない、
そういう世相だったのでしょう。

この章での挿話、はとても興味深いところがあります。
昔の王の全国の巡業の様子について話をしています。
その時の民衆の声として、
「王様がお遊びにいらっしゃらなければ、我々はどうして休息できよう。
 王様がお楽しみにおいでにならなければ、
 我々はどうしてたすけていただけよう」
と記載しています。
一方、その反対として、
王を深く恨むようになる巡業として、
川で舟遊びをしては楽しみ溺れ、
高いところに上っては山遊びにふけり、
獣を追いかければ狩りに夢中になり飽きるのを知らない、
昼夜となく酒におぼれてとめどない、
そんな巡業であれば、
王だけでなく、従者もお構いなく人民を虐げる、
そんなことが記載されています。

会社でも、
社長が現場にやってくる、
というようなとき、
こんなことがないでしょうか?
社長が現場にやってくる、のを楽しみに思える組織がどれだけあるか。
残念ながら、私のつたない経験では、
ほとんど見たことがありません。。。
社長が来る、ときけば、
不必要に緊張し、
接待用の店を用意し、
何か不具合を指摘されるのではないかと戦々恐々として、
台風が過ぎ去るのをつとに願う、
そんなことはないでしょうか?

TOPが現場にやってくる、
それを、現場が本当に心待ちにする、
そんな状態をつくるには、
現場を訪れるTOPは、品行を正し、会社の金で贅沢をするようなことをせず、
(特に地方で)
逆に現場職員とともに懇親し、
現場からの声があがれば、
それを適切に吸収し、
もちろんすぐに行動に移れなくとも、
それを「こういう声があったこと」をしっかりとしかるべき幹部、社員に公開しシェアする、
そして、そういう声を上げてくれた社員、現場には、
TOP自ら、感謝の声を伝える、
そういう取り組みが必要、ということだと思います。

さて、松陰はこの章のさっきでは、
章の内容にはほとんど触れず、
「己を修める」と「人を治める」こそ聖学の眼目であるとし、
自分自身の境遇において下記のようなメッセージを記しています。

「まず自分のこの心を正し、人の道の重いことを深く考え、
 我が国のことを思い、外国の侵攻の災いを思い、
 問題につき事件に触れて、ともにその解決について心を磨きあい、
 死に至るまで他のことを考えず、
 言葉の端といえども、このことを離れることがない、
 このようにしたならば、よし獄中にとらえられたまま死んだとしても
 天下後世、必ずわが志を継いでこれを成し遂げてくれる人が現れるであろう」

あまりにも強烈で、
そして、後世の私たちは、まさに、彼のこの言葉通りに、
彼の門下から人物が生まれていったことを思うと、
私は、学問というのは、
まさに、「自分が自分であるための意見を構成し、その意志を強烈にしていくための鍛練」
であるように感じます。

私自身についていえば、
「自己を修める」において、
ようやく「修める」題目が決まった段階で、
その中身は空っぽ、という状況です。
毎日学ばねば、そういう気持ちを強くさせる言葉です。


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北朝鮮を考える [講孟余話]

(この話も原稿作成時と今で状況が違うことをお断りします)

講孟余話 第2巻 梁恵王 下 3章

この章の話は、現在の日本を取り巻く国際関係を考えるのに好題材ではないかと思います。
斉の王が孟子に、「隣国と交際するのに何か良い方法はないか」と問います。

それに対して、孟子は、
「こちらが大国で、隣国が小国ならば侮らずに礼を厚くして交際する。
 これはただ仁者だけができることである。
 こちらが小国ならば、反対に、
 圧迫されてもよくこらえて大国につかえて安全を図ることが肝心で、
 それは智者だけができることである」
といっています。

松陰はさっ記においては、
「隣国と交際するは親睦するということを基本とする。
 力と徳と義、この3者が自国よりすぐれている国に対しては、
 もちろん仕えねばならない。
 また、隣国がその力をたのみとしてわがままにふるまっているとしても、
 なるべくは寛大に取り合って戦争はせぬようにすべきである。
 もし隣国が小国である場合は、愛護して
 その国が他国から侵されぬようにしてやるべきである」
と記しています。

そのような対応を続けながら、
真に国民を守るため、あるいは、隣国を守らねばならないときは、
大勇を奮い人民を安んじることに断固たる力を発揮する、としています。

どこが大国でどこが小国、という議論は今はしないとして、
この物差しを対北朝鮮、という国にのみ当てて考えてみると、
北朝鮮という国が、その軍備、経済力、民力とも、
一人一人はともあれ、国家としてみた場合、
現在は日本のほうが大国、といって差し支えないでしょう。一般的に。
それでありながら、
現在、私たちは拉致問題も然り、核の問題も然り、最近ではミサイルの発射云々の問題など、
北朝鮮が巻き起こす問題に右往左往している感があります。
それは、いずれも北朝鮮の彼らの事情の苦しさが生み出す問題でしょう。
それに対して、私たちは、
どれだけの「礼を厚くして、侮らず、愛護する気持で」接しているか。

もちろん、拉致問題などにおいては、
その被害にあわれた方お一人お一人の受けた被害を考えれば、
北朝鮮は犯罪者、として扱われて当然でしょう。
しかし、
その問題を追及することと、
国家としての対応の大方針、は別な次元であろう、と思います。

窮鼠は猫を噛みます。
今、北朝鮮を取り巻く各国が、
同じように彼らを敵視することを続けるならば、
最後には必ず内乱か、外へ向けて暴発することは、
必定でしょう。
国内で深刻な飢饉や、天災、などが起こる、などが引き金になりそうな気がします。
国家同士の対応は、
個別の問題で憎しみを抱えていたとしても、
国という人格では、
我々が彼らよりもはるかに大きな力を持つ以上、
礼といつくしみをもって対応すべき、
そういう輪を広めることが、
最終的に、北朝鮮の内部からの改革を促していく、と信じます。
それが力を持つ国の対応であろう、と。


蛇足になりますが、
拉致問題を取り上げ始め、そしてあるいみ世論をたきつけてきた朝日新聞は、
40年以上前、
北朝鮮を「楽園」として取り上げ、当国への出国の世論を喚起した「張本人」であることを、
これは、「ごく個人的」な憤りをもって記載します。
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